渡来銭はなぜ中世日本で広まったのか?|皇朝十二銭の衰退から寛永通宝まで

渡来銭の歴史

10世紀後半に発行された「乾元大宝」を最後に、日本では国家による安定的な銭貨の鋳造・供給が長く途絶えました。その後、17世紀前半に江戸幕府が「寛永通宝」を本格的に発行するまで、日本が自前の標準銭貨を安定して供給できない状態は、およそ600年から700年に及びました。

長谷川雅人

ただし、この期間に貨幣そのものが消えたわけではありません。米・絹・布などの物品貨幣や信用決済が使われる一方で、宋銭や明銭など、中国から流入した銭貨も広く取引に用いられました。

これらの外来貨幣は「渡来銭」と呼ばれ、中世日本の商取引を支える重要な決済手段となりました。

では、なぜ中世の日本では、自国で銭を大量に鋳造するのではなく、中国から流入した銭貨が広く使われたのでしょうか。

この記事の結論

日本で渡来銭が広く流通した大きな理由は、自国で鉱山を開発し、銭貨を鋳造・管理するよりも、貿易を通じて中国銭を取り込む方が、当時の日本にとって現実的な選択だったためです。

国家が貨幣の価値を一元的に保証できない時代において、これは国家が外国銭を制度的に採用したというより、商取引の現場で宋銭や明銭が信用され、結果として広く流通していったものです。

本記事では、皇朝十二銭の衰退から寛永通宝の本格発行に至る流れを整理します。渡来銭が中世日本の商取引をどのように支え、撰銭(えりぜに)などの流通問題が近世的な貨幣制度へどうつながったのかを、文献史料や一括出土銭の事例を踏まえて解説します。

目次

皇朝十二銭はなぜ衰退したのか

和同開珎から乾元大宝まで

日本の貨幣史において、本格的な公鋳銭の画期とされるのが、708年(和銅元年)に発行された「和同開珎」です。富本銭などの先行例はあるものの、これを出発点として、958年(天徳2年)に発行された「乾元大宝」に至るまで、歴代の朝廷によって計12種類の銭貨が鋳造されました。これらは総称して「皇朝十二銭」と呼ばれます。

律令国家は、公鋳貨幣を通じて国家の威信を示すとともに、経済活動や財政運営を一定程度管理しようと企図しました。しかし、発行を重ねるなかで銭貨への信用は次第に低下し、乾元大宝を最後に、国家による独自の標準銭貨の安定供給は長く途絶えることになります。

品質低下と貨幣信用の失墜

皇朝十二銭の信用低下には、銭貨の小型化・粗悪化、原料となる銅の確保難、新銭発行時の公定価値の操作、そして米・絹・布などの物品貨幣が根強く用いられていた当時の経済構造など、複数の要因が関係していました。

朝廷は新銭を発行する際、旧銭より高い公定価値を与えることで流通を促そうとしました。

しかし、銅の確保が難しくなるなかで銭貨の小型化や鉛分の増加が進み、実際の品質が伴わないまま名目上の価値だけが引き上げられれば、銭貨そのものへの信用は損なわれます。末期の乾元大宝に至っては銭文が不鮮明なものが増え、質の低い銭貨として市場の評価を落とす結果となりました。公定価値と市場での受け止め方との間に生じた大きな乖離が、銭貨離れを加速させたと考えられます。

米・絹など物品貨幣への回帰

銭貨に対する市場の信用が低下すると、人々は実物として価値を持つ米・絹・布などを、取引や納税の基準として用いるようになりました。品質のよい銭貨は流通市場から姿を消しやすくなり、取引の現場では国家が発行する銭貨を安定した価値尺度として用いることが難しくなっていきます。

こうして10世紀末から11世紀にかけて、日本では公鋳銭の比重が低下し、物品貨幣を中心とする取引の重要性が再び高まっていきました。貨幣が完全に消滅したわけではありませんが、実質価値を重んじるこの経験が、のちに良質な実体貨幣である宋銭・明銭が市場で受け入れられる前提となっていきます。

なぜ日本は自国で銭を作らなかったのか

銭貨鋳造に必要だった鉱山・技術・流通管理

10世紀後半に国家による標準銭貨の安定供給が途絶えた後も、鎌倉幕府や室町幕府といった武家政権が継続的に国産銭を発行する体制は復活しませんでした。その背景には、銭貨を一から製造し、社会に定着させるために必要なコストの大きさがありました。

銭貨を安定的に供給するためには、銅の確保、鉱山の開発、精錬・鋳造技術の維持、さらに市場で一定の価値を持って通用させるための制度的な管理が必要です。皇朝十二銭の衰退によって銭貨を供給する制度的基盤が弱まった日本にとって、こうした仕組みを再び整えることは容易ではありませんでした。そのため、独自の標準銭貨を再び全国的に発行することは、当時の政権にとって優先度の高い政策とはなりにくかったと考えられます。

中国銭を輸入するほうが合理的だった背景

自国で銭貨を大量に鋳造しなかった背景には、単なる技術不足だけではなく、輸入銭を利用する方が現実的だったという事情もありました。

費用とリスクを考えれば、日本国内で新たに銭を鋳造するよりも、日宋貿易や日明貿易を通じて、すでに中国大陸で大量に鋳造され広く流通経験を持つ銅銭を取り込む方が現実的でした。中国側における王朝交替や紙幣政策の変化に加え、北宋期に大量生産された銅銭のストックが東アジア海域に広く残っていたことも、日本へ宋銭が流入しやすい条件となりました。

例えば鎌倉時代後期には、西園寺氏に関係する貿易船によって10万貫規模の銭が持ち込まれたとする記録もあります。1貫を1,000文とすればこれは約1億枚に相当し、中国銭がいかに大量に流入し得たかを示す事例です。

ただし、これは国家が明確な政策として外国銭を制度的に採用したというより、中国銭を利用できる環境と日本側の銭貨需要が重なり、商取引の現場で中国銭が信用された結果として、広く使われるようになっていったものです。

割符や物品貨幣の併存による取引システム

さらに、中世日本の取引は、すべてが実物の銅銭だけで行われていたわけではありません。地方の年貢納入や基礎的な経済活動では、米・絹・布などの物品貨幣が依然として強固な基盤として機能していました。

また中世中期以降、遠隔地取引や高額決済においては、大量の銅銭を運搬するリスクを避けるため、割符と呼ばれる一種の手形・信用決済が用いられるようになりました。

このように中世社会では、渡来銭・物品貨幣・信用決済を組み合わせることで、国家による標準銭貨の安定供給がないなかでも取引を維持する仕組みが形成されていました。こうした代替手段が民間レベルで機能していたことも、統治政権が巨費を投じて独自の銭貨制度を再建する必要性を相対的に低くしていたと考えられます。

宋銭の大量流入が中世日本の商取引を変えた

日宋貿易と平氏政権

12世紀後半の平氏政権期には、日宋貿易の活発化を背景に、中国銭の流入が拡大していきました。平清盛は摂津国の大輪田泊を修築し、貿易拡大を支える港湾整備を進めました。こうした交易を通じて、陶磁器や絹織物などとともに、中国大陸から銅銭が日本へ持ち込まれるようになります。当時流入した宋銭の多くは、商取引で使える銭貨として受け入れられ、都市部や港湾周辺から流通網の発達した地域へと広がっていきました。

朝廷の警戒と銭貨流通の拡大

中国銭の流入に対し、当時の朝廷は警戒感を示しました。12世紀末の公家の日記や記録には、銭貨の流行を「銭の病」と捉え、社会秩序の乱れとして危惧する記述も見られます。朝廷はたびたび銭貨の使用を禁じる法令を出しましたが、持ち運びや分割に優れた銅銭の利便性は高く、商取引の現場で利用が広がっていきました。年貢を銭で納める「代銭納」も各地で見られるようになり、銭貨は商取引だけでなく、年貢や租税の場面にも関わるようになっていきます。

北宋銭が日本で果たした役割

日本で見つかる中世の出土銭では、南宋以降の時代に流入したと考えられる銭貨であっても、その多くを北宋銭が占めています。この背景には、中国側の銭貨流通や政策の変化が関係していました。北宋期に大量に鋳造された銅銭のストックが、南宋や元の時代にも東アジア海域に残り、日本との交易に乗って流入していったとみられます。また、南宋期には会子、元代には交鈔といった紙幣が用いられるなど、銅銭流通のあり方も変化していました。

日本側において、宋銭は決済手段としてだけでなく、銅を含む金属資源としても価値を持っていました。中世には銅銭が鋳潰され、仏具や梵鐘、日用品などの材料として再利用されることもありました。このように貨幣としての用途に加え、金属資源としての利用価値を持っていたことも、宋銭が日本で受け入れられやすかった背景といえます。

永楽通宝はなぜ日本で重視されたのか

日明貿易と明銭の流入

室町時代に入ると、足利義満の時代に勘合符を用いて正式な貿易船を確認する日明貿易(勘合貿易)が始まり、新たな中国銭が日本へ流入するようになります。この時期に持ち込まれたのが、「洪武通宝」や「永楽通宝」などの明代の銭貨です。特に永楽帝の時代に鋳造された永楽通宝は、のちの日本社会で重要な位置を占めるようになります。

東国で重視された永楽通宝

明本国では紙幣である大明宝鈔の流通が重視された時期もあり、銅銭の流通は政策の影響を受けました。一方、日本では永楽通宝が高い信用を得て、特に関東を中心とする東国で基準銭として用いられるようになります。戦国時代には、年貢や家臣への知行高を、永楽銭を基準とする貫高で表示する「永高制」という仕組みが、東国の大名領国で用いられました。

西国に残った宋銭系流通と銀の使用

一方、畿内以西の西国では、新しい明銭よりも長く使い慣れた宋銭系の銭貨を好む傾向が見られました。これは、宋銭系の銭貨が取引上信用しやすい良銭として扱われることが多かったためと考えられます。また、西国では室町時代後期から戦国時代にかけて、高額決済において、重さを量って価値を決める銀(秤量銀貨)の使用が東国よりも早く広まっていきました。

もちろん、実際の銭貨流通は地域・時期・取引規模によって異なります。ただ大きな傾向として、中世後期の日本では、東国で永楽通宝が重視され、西国では宋銭系の銭貨や銀の使用が広がるという地域差が見られました。渡来銭は日本全国で均一に使われていたわけではなく、地域ごとの経済状況や商慣行に合わせて使われていた実態がうかがえます。

渡来銭の時代はどのように終わったのか

中国の銀経済化と銅銭流入の変化

16世紀後半以降、日本における銭貨流通の環境は大きく変化しました。その要因の一つが、供給元であった明朝の貨幣制度や交易環境の変化です。

当時の明では、日本銀や海外銀の流入を背景に、銀を中心とする取引の比重が高まっていました。税制面でも、煩雑な税目を整理し、銀で納入させる「一条鞭法」が各地に広がっていきます。こうした銀を中心とする取引の拡大や貿易管理の変化により、日本へ大量の銅銭が流入し続ける条件は、以前ほど安定しなくなっていきました。

日本国内の金銀生産と貨幣統制

一方、日本国内でも鉱山開発が進み、金や銀の産出量が増加しました。戦国大名たちは領国内の経済を安定させるため、金銀を用いた貨幣の利用を進めていきます。

代表的な例として、武田氏領国で用いられた甲州金が挙げられます。甲州金は「両・分・朱」といった単位を持ち、のちの江戸幕府の金貨制度にも影響を与えたとされます。さらに織豊政権期には、天正大判の鋳造などを通じて、統一権力が金銀の貨幣的利用を主導する動きが見られるようになります。

こうして大口取引では金銀の役割が増し、銭貨は主に日常的な小口決済を担うものとして位置づけられていきました。

寛永通宝の発行と三貨制度への移行

江戸幕府が成立すると、慶長通宝などの試行を経て、1636年(寛永13年)に「寛永通宝」の本格的な鋳造・発行が開始されます。これは、渡来銭中心の銭貨流通から、幕府発行銭を中心とする流通へ移る大きな画期となりました。

幕府は各地の銭座で寛永通宝を鋳造させ、大量供給を進める一方、市場に急な混乱を与えないよう、段階的な移行を図りました。東国で強く流通していた永楽通宝についても、通用の制限や交換基準を設けながら、段階的に新しい銭貨制度へ移行させていきます。

寛永通宝の流通が全国に広がるにつれて、宋銭や明銭といった渡来銭は、日常流通の中心から外れます。独自の標準銭貨が安定して供給されるようになったことで、日本の貨幣制度は、幕府が統制する金・銀・銭の三貨制度へと移行していきます。これにより、数百年に及んだ渡来銭中心の時代は終わりへ向かいました。

まとめと付録(渡来銭・穴銭の基本用語表)

本記事では、皇朝十二銭の衰退から寛永通宝の本格発行に至るまで、日本の通貨流通を支えた渡来銭の歴史的背景を解説しました。

中世の日本が自国で貨幣を継続的に鋳造しなかったのは、単なる技術不足や怠慢ではなく、中国で大量鋳造された銭貨を貿易によって取り込む方が、当時の日本にとって現実的で合理的だったためです。国家による一元的な価値保証が十分でないなかでも、渡来銭は取引の現場で信用され、長期間にわたって商取引を支える決済手段として機能し続けました。

のちに生じた鐚銭の混在や撰銭の混乱、そして織田信長らによる交換基準の設定といった経験は、江戸幕府による近世的な貨幣統制へつながる前提の一つとなりました。


【付録:渡来銭・穴銭の基本用語表】

中世の貨幣史を理解する上で、混同しやすい主要な用語の定義を以下に整理します。

用語意味・定義
渡来銭中国などの海外から日本へ流入し、国内の商取引で一般に流通した外来貨幣の総称。
宋銭宋代、特に北宋期を中心に鋳造された銅銭。中世日本の出土銭で大きな比率を占め、流通の基盤となった。
明銭明代に鋳造された銅銭。永楽通宝や洪武通宝などがあり、勘合貿易などを通じて流入した。
鐚銭(びたせん)品質の低い銭や私鋳銭・模鋳銭などを含む粗悪銭の総称。忌避されつつも日常の小口決済を支えた。
撰銭(えりぜに)取引の際、品質や状態の悪い銭の受け取りを拒み、状態のよい銭(精銭)を選別しようとする行為。

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この記事を書いた人

【経歴】
大学で歴史や哲学を専攻
美術品・骨董品・古美術の業界で20年

【実務】
・一般顧客からの買取(主に出張買取や店舗での買取)
・美術品時価評価書の作成
・業者オークションでの仕入
・ギャラリーでの販売
・小規模の買取店などに美術品の鑑定方法や査定方法の指導
・買取業者・整理業者に対するLINEを使ったリアルタイム査定

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